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新千歳空港の歴史〈第1回 空港のはじまり編〉

空港の歴史ダイジェスト〈第1回 空港のはじまり編〉

 千歳の地に、国内有数の拠点空港ができた背景には、当時の千歳村民の熱意から始まったさまざまなドラマがあります。「空港の歴史ダイジェスト」では、村民が鋸と鍬で造成した手造りの着陸場が、今日の新千歳空港の姿になるまでの軌跡を振り返ります。

目次 夢を語る3人▼ 手造りの着陸場▼ 熱狂する千歳村民▼ 「北海」第1号▼ 酒井憲次郎という男▼

 

夢を語る3人

 日本で初めて飛行機が飛んだのは、明治43年12月のこと。東京の陸軍代々木練兵場(現在の代々木公園)でフランス製、ドイツ製の飛行機2機が公式飛行に成功したことが、日本における航空史の始まりです。アメリカのライト兄弟が人類史上初の動力飛行に成功してから、およそ7年後のことでした。

 その頃、千歳村は人口が4,000人程度の一寒村で、樽前山の度重なる噴火によって降灰に覆われ、土地は痩せ、農業には適さない地域でした。渡部栄蔵 (1).jpg
 そんな千歳村で、飛行場への夢を思い描いた3人の村民がいました。村長の山田旦、郵便局長の中川種次郎、そして村議会議員であり山三ふじやグループ創業者の渡部栄蔵です。渡部の回想によると、3人は、千歳市街地南方のサンナシの沢に盆栽を取りに出かけたある日、この広大な火山灰地をなんとか利用して、飛行場にできないものかと語り合ったといいます。

 数年後、千歳村は、飛行場の誘致活動を始めました。大正12年には初めて逓信大臣に国設飛行場設置の請願をし、これを受け逓信省は、現地調査を行いました。翌13年には『北海道千歳郡千歳村字「ママチ」ニ航空場設置ノ件』が帝国議会に提出され、これが採択されます。

・・・千歳の原野は面積が広大であり、しかも地価が安く、大規模な飛行場を造成するには利点ですが、この地方の気象その他の状況を調査してみたところ、一年を通じて暴風が吹く日数が相当に多く、霧も相当に多いというような、留意すべき点があります。また、交通運輸の便という観点から申しますと、鉄道からの距離が少々遠いことにも考慮を要します。
・・・まだ確定した方針もありませんので、逓信省としましては、この「ママチ」の原野を、将来東北、北海道方面に飛行場を設ける場合の有力な候補地の一つとし、十分な今後の研究調査を続けていきたいと考えています。

※第四十九回帝国議会衆議院『請願委員第三分科会議録第一回』の政府委員答弁を現代語訳

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手造りの着陸場

 大正15年8月、北海道鉄道の札幌線(苗穂-沼ノ端)が開通し、千歳村に駅が建設されました。間もなくして、小樽新聞社(※)の社員が村役場を訪れ、「鉄道が開通した千歳村で、当社が主催する観楓会を行う。孵化場を見学したのち、神社山で昼食会を開くので、湯茶の接待をしてもらえないか」と申し出ました。
 千歳村はこれを快諾し、特産品であるヤマブドウ、馬鈴薯、三平汁などでもてなすことを約束しました。当時、食堂がなかった千歳村では最大の歓待であり、感激した小樽新聞社の社員は、「我が社には購入したばかりの飛行機がある。この飛行機を千歳村の上空で飛ばし、歓待のお礼として当日、空から宣伝ビラを撒きましょう」との提案をしました。
 千歳村は、「それならば、着陸して飛行機を間近で見せてもらえませんか」と小樽新聞社に頼みました。着陸場も無いなかでの途方もない申出でしたが、後日、小樽新聞社の操縦士が、着陸場の選定と造成方法の指導のために来千することになりました。この操縦士が、のちに千歳市の歴史にその名を深く刻むことになる酒井憲次郎その人でした。

2酒井憲次郎(背広).jpg 3小樽新聞観楓会.jpg
酒井憲次郎  自社観楓会を報じる小樽新聞記事

 渡部は酒井に、市街地にあるいくつかの土地を提案しましたが、いずれも背後に山があったり、地盤が軟弱だったりと、飛行機を着陸させる場所としては適していませんでした。困った渡部は、10年ほど前に、サンナシの沢で飛行場の夢を語り合ったことを思い出します。その一帯に酒井を案内したところ、「地盤は適していますが、飛行機の離着陸には根株の抜根整地が必要です」とのことだったので、渡部はいったん村に持ち帰って検討することとしました。

 すぐに村民大会が開かれ、着陸場の造成が議題とされました。「もし札幌に映画を見に行けば、汽車代、昼食代と合わせて3円はかかる。1日の出面費を1円20銭として2日作業すれば、映画を見るよりも安く、珍しい飛行機を見ることができる」この提案に村民たちは賛同し、青年団、婦人会、それに小学生までもが鋸や鍬を持って造成作業に参加しました。
 村民たちの労力奉仕により整地が行われ、長さ110間、幅60間(約200メートル×約110メートル)の着陸場が、2日間で完成しました。

(※)小樽新聞社
 明治27年に創立。北海タイムスとともに、道内の代表的新聞社の一つであった。「一県一紙」という国の方針によって、国家総動員法・新聞事業令に基づく新聞統制が行われた結果、昭和17年に北海タイムスなど10社と統合。現在の北海道新聞が誕生した。

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熱狂する千歳村民

 大正15年10月22日、その日は澄み渡るような秋晴れの空で、飛行機を一目見ようと朝から着陸場周辺には群衆が集まっていました。そのときの村民たちの熱狂ぶりを、当時の小樽新聞は次のように記しています。

・・・川合千歳村長中川郵便局長を始め恵庭村渡辺部長小野小学校長消防組頭森林主事など官民有志百余名に及び千歳恵庭広島遠くは沼の端苫小牧より一般観覧者五千に達し近村小学校生徒二千を加へ其間盛装を凝した婦人会処女会員が目も鮮やかに彩るなど無慮一万に近き人垣は飛行場の周囲に動揺めき流れ之が整備の為に選ばれた消防隊青年団員等の諸君は声を嗄して場の警備に忙殺されるなど見るからに熱狂する飛行場気分に唆られながら今しも鮮やかに着陸した空の征服者の上に万歳の声を浴びせながら観衆の瞳は矢を射る様に集まった。

※大正15年10月23日付小樽新聞4面より

 札幌飛行場を離陸した飛行機は、午後1時15分頃、千歳の空に姿を現し、小樽新聞社の宣伝ビラを撒きながら、午後1時20分頃、大勢の歓迎者が待ち受ける着陸場に降りてきました。

・・・やがて小樽新聞社の飛行機は、小粒のように見え、次第に鳥の大きさになりグングン頭上に近づいて来ました。歓呼は怒涛のように上がり、感激に応えるように大きく輪をいくたびか描いて、グンと機首を下げ、部落民の造った着陸場へ、なんの支障もなく見事に着陸しました。その時は心からヤレヤレと安心すると、ゾクゾクと嬉しさがこみあげ、ふと瞼があつくなる思いになりました。 

※渡部栄蔵の証言(「趣味のチトセ郷土史」)より

 着陸した飛行機からは、酒井操縦士、野中機関士、宮古写真班員の3人が降りてきました。着陸を祝し、村民を代表して川合村長の娘である川合トシ子から、酒井に花輪が手渡されました。

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着陸後、川合トシ子から花輪を受け取る酒井 訪問飛行への謝辞を述べる川合村長

 千歳着陸場での滞在はわずか2時間程度でしたが、別れを惜しむ村民たちの万歳が響き渡る中、酒井の操縦する飛行機は、今度は鮮やかな離陸を見せ、そのまま観衆に敬意を表するかのように旋回飛行し、札幌の夕焼け空に消えていきました。

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「北海」第1号

 このとき千歳に着陸した飛行機は、その名を「北海」第1号といい、海軍が採用していた「十年式艦上偵察機」をベースとしています。

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千歳着陸場に着陸した「北海」第1号

 十年式艦上偵察機は、イギリス人技師ハーバート・スミスが海軍から注文を受け設計した複葉機で、のちに多くが民間に払い下げられました。
 大正期、北海道で販売部数を競っていた小樽新聞社と北海タイムスは、それぞれ定期航空路の開設をもくろみ、ともに2機ずつ払い下げ機を調達しました。小樽新聞機には「北海」、北海タイムス機には「北斗」とそれぞれ命名され、任務にあたりました。

 「北海」第1号は、白銀色の機体に、上翼上面、下翼下面及び機体側面に印字された「J-TAWA」の標識が特徴的です。操縦席の両脇には「北海」の二文字、さらに小樽新聞社の社章である鳳凰がデザインされています。

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酒井憲次郎という男

 酒井憲次郎は、明治36年に新潟県に生まれ、地元の工業学校を出たのち陸軍所沢飛行学酒井憲次郎.jpg校に入校。大正14年に一等飛行機操縦士となっています。大正15年8月に小樽新聞社に入社し、退社までの5か月の間に千歳訪問飛行を実現しました。
 酒井のパイロットとしての腕は相当なもので、小樽新聞社を退社し、朝日新聞社航空部に入ったあとの昭和3年には、国内定期航空の操縦士として飛行時間315時間あまり、延べ飛行距離45,319km、これを無事故で達成した実績から、その年のハーモン・トロフィー(※)を受賞しています。
 さらに昭和6年には、根室上空にてリンドバーグの太平洋航路調査を空中取材し、着水地点の根室港まで誘導するという大役を果たしました。

 しかし、順風満帆に見えた彼の人生は、突如として終わりを告げることとなります。

 昭和7年9月、日本は満州国を承認し、日満議定書に調印。大阪毎日新聞(大毎)と朝日新聞との間で、調印式の様子を撮影した写真を日本本土に空輸し、どちらが先に記事にするかの取材合戦が起こりました(新聞空中戦)。大阪毎日新聞は、輸入したばかりの最新鋭機、ロッキード・アルテア8D連絡機を新聞空中戦に投入。対する朝日新聞機は、最大速度、航続距離ともに大毎機に遠く及ばないデ・ハビランドDH-80プス・モス通信機でした。
 大毎機が比較的安全な朝鮮半島を経由する航路を選択したのに対し、プス・モスで大毎機に対抗することを余儀なくされた酒井は、やむなく日本海を無着陸で横断する航路を選択。ベテラン機関士の片桐庄平とともに大阪飛行場に向け、満州国の首都新京を飛び立ちました。

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デ・ハビランドDH-80プス・モス通信機(写真左上は片桐機関士と酒井操縦士)

 その日、山陰地方は午後から雨となり、予定の時刻を過ぎても酒井の操縦するプス・モスは現れず、日本海に不時着したと判断されました。その後、鳥取県東伯郡八橋町沖で機体の一部が漁船によって発見され、八橋沖の海中に墜落したものとみなされました。

 このとき酒井は29歳。その早すぎる死を惜しむとともに、彼の輝かしい功績を後世に伝えていくため、八橋の城山に殉難碑が建てられました。没後70年にあたる平成14年には、千歳着陸場へ降り立った姿を現すブロンズ像が新千歳空港内に建立されました。

8酒井ブロンズ像.jpg 9北海第1号モニュメント.JPG

 酒井のブロンズ像は現在、平成20年4月にオープンした空港公園(千歳市柏台南)に移設され、「北海」第1号のモニュメントとともにその勇姿を伝えています。

(※)ハーモン・トロフィー
 国際飛行連盟が、その年の各国の最優秀パイロットに贈る賞。航空界では当時、パイロットにとって最高の栄誉とされた。

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