空港の歴史ダイジェスト〈第2回 航空基地誘致編〉
千歳に国内有数の拠点空港ができた歴史と背景を振り返っていきます。
第1回では、千歳村民総出で着陸場を造成し、「北海」第一号が降り立った時代を振り返りました。
第2回では飛行場継続のため、民間飛行場や航空基地の誘致活動を行った時代を振り返っていきます。
目次 | 千歳村の飛行場誘致活動▼ 三度目の正直▼ 世界へと羽ばたく「貴婦人」▼ 海軍航空隊開隊▼ |
千歳村の飛行場誘致活動
「北海」第一号の着陸から1年後の昭和2年8月、今度は北海タイムス機の「北斗」第五号が着陸し、千歳着陸場の名は次第に世間に広まっていきました。千歳村は、着陸場を永続的な飛行場として活用したいと考え、貴衆両院、各大臣などに対し飛行場設置の請願書を数回にわたって提出します。
昭和7年4月に提出された「空輸計画ヲ伴ウ飛行場建設ノ儀ニ付請願」では、土地が平坦、札幌へ至近、火山灰体積地であるため地盤が強固、積雪が少ない、鉄道で物資を輸送できる、王子千歳川発電所の電力が利用可能など、千歳の地の優位性をアピールするとともに、「計画に必要とあらば、土地を無償で提供することもいとわない」との付言をしています。
ところが、その甲斐なく政府は、「北海道の基幹飛行場は札幌の北24条に建設する」との決定を下します。当時の飛行機が今日のものと比べて小型であり、広大な飛行場面積を必要としなかったこと、また騒音もそれほど問題にならなかったことから、利用者の利便性が優先された結果でした。
千歳村は民間飛行場の誘致を断念し、陸軍飛行場を誘致することに方針を変更します。村民を動員し、着陸場を拡張し千歳飛行場を開きました(第1期拡張工事)。
昭和10年3月、この年の秋に航空演習を予定していた陸軍の航空本部員が千歳村を訪れ、飛行場を視察していきました。当初、航空本部の評価は「演習には狭すぎる」と厳しいものでしたが、千歳村はこれを飛行場誘致のチャンスととらえ、村民の動員に加えて地元の土木業者にも工事を請け負ってもらい、再び拡張工事を行いました(第2期拡張工事)。
この工事で、飛行場面積は一気に10万坪を超え、演習場として採用されるに至りました。
翌年の昭和11年、今度は陸軍特別大演習が北海道で行われるということを知った千歳村は、飛行場を大演習に使用してもらおうと、さらなる拡張に着手します(第3期拡張工事)。ここでも村民の手による工事が行われたほか、地元の企業から寄附を募り、農場からトラクターを借りて整地に使うなど、まさに村を挙げての事業となりました。
3度にわたる拡張工事で飛行場面積は17万坪以上に拡張され、北海道最大の飛行場面積となりました。
この陸軍大演習では千歳村に統監部が置かれ、千歳飛行場は連絡飛行場として使用されるなど重要な役割を果たしましたが、最終的に陸軍が飛行隊設置を決めたのは、千歳ではなく帯広でした。帯広には昭和7年に完成した民間飛行場があり、陸軍はこれを軍事転用することとしました。
民間飛行場(札幌)、陸軍飛行場(帯広)と立て続けに誘致合戦に敗れた千歳村でしたが、まだ一縷の望みがありました。陸軍だけでなく海軍も、同じく北海道に航空基地を建設するべく、適地を探していたのです。
千歳村による飛行場誘致活動の変遷
昭和4年2月 | 貴衆両議院に「航空場設置請願書」を提出。衆院で通過採択されたが実現に至らず。 |
昭和7年4月 | 内務、逓信、陸軍の各大臣及び貴衆両議院に「空輸計画ヲ伴ウ飛行場建設ノ儀ニ付請願」提出。 |
昭和8年2月 | 第7師団長、北海道庁長官及び札幌逓信局長に「陸軍飛行場設置請願書」を提出。 |
昭和9年9月 10月 |
千歳村陸軍飛行隊設置連成会を組織。第1期拡張工事に着手。 45,000坪の新飛行場整備が完了。 |
昭和10年1月 4月 6月 |
村有地と飛行場周辺の民有地を交換し、約400,000坪の飛行場用地を確保。 第2期拡張工事に着手。 約100,000坪に拡張完了。 |
昭和11年5月 6月 10月 |
陸軍特別大演習の北海道開催を知った千歳村は、第3期拡張工事に着手。 172,000坪に拡張し、北海道最大の飛行場面積となる。 陸軍特別大演習が行われる。 |
三度目の正直
海軍は、気象の制約を受けやすいとの理由から、北方の航空基地建設には消極的な態度を取り続けていましたが、米英列強との対立が深まるにつれ、北方海域の備えも国防上欠かせないと考えるようになります。そこで、北海道のどこかに海軍航空基地を建設する案が浮上してきました。
当初、海軍が想定していた作戦は、アラスカのダッチハーバー軍港から南下してくるアメリカ軍艦隊を航空機の雷撃で迎え撃つというもので、アメリカ本土に近い根室が建設地として有力視されていました。
しかし、昭和10年7月から実施した海軍大演習にて、根室飛行場は霧が発生することが多く、ただ単に米本土に近いという利点だけでは通年使用する飛行場の建設地としては適当ではないとの結論に至りました。
海軍は建設地を再考し、霧の発生が少ない北見山地と日高山脈の西側が適当と判断。昭和12年2月には次の決定をします。
昭和十四年度末迄ニ左ノ如ク整備ス
北海道西部ニ飛行場ノ新設
それから間もなくして海軍省から、より具体的な建設地選定のための調査指令が出されます。指令を受けた檜貝(ひがい)嚢治と小福田晧文(てるふみ)という2人のパイロットは、その候補を「石狩川流域」、「苫小牧地区(勇払平野)」、「千歳付近」の3つに絞り、調査を開始しました。
調査を開始する前、檜貝と小福田は、漠然と石狩、苫小牧、千歳の順に有力候補地だろうと考えていましたが、調査が進展していくとともに、「広くて平たんな土地さえあれば良い」というものではないことが判明してきました。のちの小福田の回想によると、3地域の調査結果は次のようなものでした。
石狩川流域 | 広く開けた地形ではあるが、低地で地下水位が高く、石狩川はん濫の問題や、全域が立派な開墾地であること等から、保留とした。 |
苫小牧地区 | この地域の不適格性は、一言で言えば「地質と海霧の進入」。特に地質は本州等では見られない一種の「古代凍土」とも呼ぶべきもの。 |
千歳付近 | 千歳村から遠くないところにある飛行場らしき場所は、600m四方の平たんな草地で、四方は林に囲まれている。要求されている滑走路の長さは1,500m程度であるが、この付近であれば拡張の余地もあり、その他の諸条件も悪くなく、地質等も「適」と判断した。 |
1週間ほどの調査ののち、檜貝と小福田の両名は、千歳を第一候補として報告し、この報告を受けた海軍は、千歳に航空基地を建設することを決定します。民間、陸軍と、飛行場誘致における2度の挫折を経て、ようやく村民の努力が実を結んだ瞬間でした。
海軍は米航空兵力の包囲網等に対抗するため、千歳航空基地の建設を急ぎましたが、厳しい冬季の気候も影響し工事は遅延しました。この頃には「千歳に吹く風は、年間を通じてほぼ南か北の風で、特に4月から10月にかけては南の風が多い」ということが知られはじめ、当初は直角交差する滑走路を設計したものの、整備を急ぐため南北滑走路一本を先行して整備することとなりました。
世界へと羽ばたく「貴婦人」
整備が最終段階に入った昭和14年8月、1機の飛行機が千歳飛行場から離陸しました。飛行場黎明期に千歳を飛び立った飛行機のうち、「北海」第一号と並んで歴史に名を残している「ニッポン」号です。機体の鮮やかな銀色と、細長いスマートな形状から、「貴婦人」の呼び名が付けられました。
この「ニッポン」号の最大の功績は、世界一周という偉業を達成したことにあります。
世界各地に寄港した「ニッポン」号は日本の技術力の高さを世界に示すとともに、在外日本人を大いに勇気づけ、各地で熱烈な歓迎を受けました。そして羽田を出発してから55日、飛行距離52,886キロ、飛行時間195時間24分28秒で世界一周の偉業を達成し、アメリカ駐日大使ジョセフ・グルーは、帰還した「ニッポン」号と乗組員をたたえ、最大限の賛辞を送りました。
「ニッポン」号は羽田を出発した後、千歳に寄港しましたが、当時、設営中の千歳海軍基地から飛び立ったことを偽装するため、根室や札幌の飛行場から飛び立ったとする偽装が行われました。
また、アメリカを横断していた頃、ドイツがポーランドへの侵攻を開始し、第二次世界大戦が勃発した影響から、当初寄港予定だったパリ、ロンドン、ベルリンを回避し最短ルートでヨーロッパを離れ、中東、インドなどを通って日本に帰り、世界一周を果たしました。
海軍航空隊開隊
昭和14年10月、千歳海軍航空隊が開隊し、北海道で初めて創設された海軍航空隊となりました。千歳航空基地は、先行整備された長さ1,200m、幅80mの南北滑走路を擁し、当時の海軍の主力機であった九六式陸上攻撃機(陸攻)と九六式艦上戦闘機(艦戦)が配備されました。のちに南北滑走路と直角交差する滑走路が1本、増設されることとなります。
当時の海軍省の資料によると基地のデータは次のとおりです。
面積及地形 | 十九万五千平方米 東西ニ対シ百五十分一西下リニシテ南ニ対シテハ水平 |
種類 | 陸上機用 |
地方風 | 地上 夏ハ南北風、冬ハ南北及ビ西風、一般ニ風力弱シ 上層 不詳 |
地方特殊ノ気象 | 夏ハ一般ニ海霧多シ(朝夕最モ多ク日中ハ晴ルル事多シ) 九・十・十一月快晴多シ 十二月ヨリ翌年三月末頃マデ積雪アリ平均一米 |
※昭和17年3月 水路部軍極秘9,100号「海軍航空基地資料第1」より
航空基地の建設は、飛行場の永続使用だけでなく、人口増加という恩恵ももたらします。
航空隊開隊に先立ち、海軍の先遣隊や工事関係者が流入してきたこと、また開隊後には多くの航空隊員が居住するようになったことで、宿舎が次々と建設され、昭和10年に6,500人程度だった人口が、昭和17年には1万4,000人程度まで増加し、村は大いに発展しました。そして同年5月1日には町制に移行し、「千歳町」となったのでした。