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新千歳空港の歴史〈第3回 戦後の空港編〉

空港の歴史ダイジェスト〈第3回 戦後の空港編〉 

千歳に国内有数の拠点空港ができた歴史と背景を振り返っていきます。

第1回では、千歳村民総出で着陸場を造成した時代を、第2回では民間飛行場や航空基地の誘致活動を行った時代を振り返りました。

第3回では、千歳飛行場から千歳空港へ、千歳空港から新千歳空港へと発展していく道のりを振り返ります。

目次

日本の空を取り戻す▼ 軍民分離▼ 新千歳空港の開港▼

 

日本の空を取り戻す

 昭和20年8月、戦争は終わり、アメリカをはじめとする連合国軍が国内に進駐を開始しました。ここから対日講和条約が発効するまでの約7年間、日本は連合国軍の占領下に置かれることとなります。

 

 終戦から間もなくの日本では、GHQが発出した航空禁止令によって、日本側の自主運航禁止、航空会社の解散はもとより、航空機に関する研究・実験・運用等の活動までもが一切禁止され、代わりに外国の航空会社が続々と国内に乗り入れていました。

 

 昭和26年1月になると航空禁止令が緩和され、国内航空運送事業の免許を受けた日本の法人1社に限ってのみ、運航が可能となりましたが、免許を取得するために5社が乱立するという有様でした。一刻も早く、日本の空を日本人の手に取り戻したかった政府は、これらの法人を合流させ、外国に支配されない航空会社を設立することを画策します。こうして設立されたのが日本航空株式会社でした。
 もっとも、日本航空は営業のみで、航空機の運航はまだ認められていなかったため、アメリカのノースウエスト航空との間に運航委託契約を結び、運航実績に応じて同社に委託料を支払うという変則的な運航方式がとられました。 

 

 昭和26年9月、サンフランシスコ講和条約調印により、国は翌27年7月に航空法を公布・施行しました。これを受け、日本航空は10月に東京=札幌など6路線の事業免許を得て、自主運航を開始しました。

          
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昭和26年頃の千歳町(千歳橋)

 同じころ道内では、民間航空再開に向け、丘珠にある札幌第一飛行場と千歳飛行場との間で誘致合戦が起こっていました。このときの千歳町長である山崎友吉は、日本航空の設立を機に、ここで民間航空を誘致できるかが今後の町勢を左右すると考え、GHQに対し千歳飛行場を使うよう直談判をします。さらに自ら先頭に立ち、関係省庁への陳情活動を精力的に行いました。

 

 丘珠と千歳は、ともに滑走路延長が1,200m。戦前の実績や、札幌への利便の面では丘珠に分がありましたが、これに対して千歳は、積雪量の少なさと、1年を通してほぼ南北にしか風が吹かないという気象条件の良さをアピールしました。結局、気象条件のほか当時の施設状況も考慮され、日本航空による東京-千歳間航路が開設されることになりました。その1番機は「もく星」と名付けられ、昭和26年10月23日、千歳飛行場に飛来しました。千歳市街地の各戸に日の丸が掲げられ、千歳神社前には児童生徒が日の丸小旗を持って集まり、民間航空の再開を祝いました。

 
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民間航空再開を祝う町民

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千歳飛行場に着陸した「もく星」

 

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軍民分離

 千歳飛行場は、戦後すぐにアメリカ軍によって使用され、昭和32年5月には第2航空団が移駐してくるなど、軍用色が強い飛行場でしたが、千歳町は空港で町おこしをしたいとの考えから、民間航空専用地域の設定と空港ターミナルビルの建設を国に対して要望するようになりました。

 

 昭和34年7月、千歳飛行場がアメリカ軍から日本に返還されたことを機に、民間専用地域を滑走路東側に設けるとの基本方針が示されました。前年に市制が施行され、この年2代目千歳市長に就任した米田忠雄は、ターミナルビル建設を実現するべく奔走します。地元の財界人や周辺自治体を説得して回り、参画を取り付け、ついにターミナルビルの運営会社を設立するまでに至りました。その会社は、商号を北海道空港(株)といい、本社が千歳市に置かれました。

 
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 ターミナルビルが開業したのは、昭和38年4月のことです。これに先立って建設中であった民間航空機用の誘導路や駐機場も完成し、ビルと合わせて供用が開始されました。

 

 昭和41年7月、空港を所管する運輸大臣(現:国土交通大臣)と北海道開発庁長官の記者会見での発言により、千歳市に激震が走ります。

「千歳空港を自衛隊専用空港とし、札幌周辺に新しい空港を建設する計画である」

千歳空港の自衛隊専用化―――。驚愕した米田はすぐさま臨時議会を招集し、政府への要望意見書の決議を得ます。要望意見書の要旨は、「千歳空港を民間専用の空港整備法に基づく第1種空港に指定し、さらに国際空港として必要な諸設備の整備をすみやかに実施していただきたい」という、政府発言とは真逆のものでした。

 

 米田を中心に、近隣自治体などと連携し強力な要望運動を行った結果、運輸省、防衛庁、北海道開発庁の3者の協議によって、「千歳空港は、原則として防衛庁関係と民間関係を分離する方向で検討する」との申し合わせを得るに至ります。これにより自衛隊専用化は免れましたが、楽観できるような状況ではないとみて、その後も千歳市は陳情運動を展開し続けました。

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米田 忠雄(市長室にて)

 
 昭和42年7月には、運輸大臣が千歳空港を視察したのち、記者会見で「千歳空港は軍民分離の方向で検討を進めている。国際空港の新設については、石狩町生振など札幌に近い場所にとの要望も強いが、積雪量の関係などから千歳周辺に絞って決める」、「2,000m級の滑走路を新設し、民間専用としたい」と発言し、千歳への民間専用空港建設が確実となりました。
 
 昭和48年9月、新千歳空港整備基本計画が策定されました。3,000mの滑走路2本と、年間3,600万人まで受け入れ可能なターミナルビルを擁する巨大空港です。このうち、民間専用滑走路1本とこれに対応する諸施設を先に整備して、昭和53年12月に開港する計画でした。
 
 しかし着工後、オイルショックのあおりを受けて、国内の航空需要は低迷。さらには国の財政状況悪化による公共工事の抑制や用地買収の難航といったことから、工事は遅れに遅れ、昭和61年3月には整備計画の大幅変更が告示されることとなりました。
 
このときの主な変更内容
供用開始予定日・・・・・・昭和53年12月1日から昭和63年7月20日に
需要予測・・・・・・・・・年間3,600万人から年間2,462万人に
ターミナルビルの形状・・・台形から半円形に

 

 その後の工事は順調に進んでいき、昭和62年12月にはA滑走路が完成。年間乗降客数も1,000万人を突破しました。そして着工からおよそ13年の歳月を経て、ついに新千歳空港が開港します。

 

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新千歳空港の開港

 昭和63年7月20日、開港の日を迎えた新千歳空港ではセレモニーが行われ、新滑走路から全日空の1番機が離陸しました。その直後には、アンカレジ発の日本航空貨物便が2便、続いてアメリカの貨物航空会社2社の便が到着し、国際色豊かな幕開けとなりました。

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セレモニー参加者と全日空1番機

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アンカレジから到着した日本航空貨物機

 

 新千歳空港が開港した翌年の7月、新ターミナルビル建設の起工式が行われました。新ターミナルビルは、アメリカのダラス・フォートワース空港を参考に設計された、国内ではほかに類を見ない半円型のビルです。
 およそ3年の歳月をかけて建設され、平成4年7月に新駐車場やJR新千歳空港駅とともに供用開始。新千歳空港の新たな顔となりました。これにより、航空自衛隊基地との完全な軍民分離を達成し、名実ともに民間専用の空港となりました。 

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供用開始直前の新ターミナルビル(平成4年5月撮影)

 平成5年6月には第3期整備計画が実行に移され、3,000mのB滑走路建設を開始。平成8年4月に供用が開始され、3,000m級の滑走路を2本有する空港としては、羽田空港に次いで国内2番目となりました。

 

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